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経済学教育学会紀要『経済教育』第21号掲載機会費用概念の教育性に関する覚書東京都立国立高等学校 新 井 明 3 機会費用概念の教育性とオーストリア学派の人間観ここでの問題は,経済学上の機会費用の教育性である。その手がかりを,オーストリア学派の費用概念の影響を強く受けている公共選択学派のブキャナンの論を手がかりに考察したい。 ブキャナンは次のように費用を説明する。すなわち選択理論のなかの費用は,@費用はもっぱら意思決定者によって負担されねばならないことである。費用が転嫁されたり,他の人々に課せられたりすることは不可能である。 A費用は主観的である。それは意思決定者の心の中に存在するのであった他のどこにもない。 B費用は予想に基づいている。それは必然的に前向きの,言い換えれば事前的な概念である。 C費用は選択というそれ自体の理由によって,決して実現されえない。すなわち,諦められるものは享受されえない。 D費用は意思決定者以外の誰によっても測定されえない。なぜなら,主観的経験を直接に観察できる方法はないからである。 E費用は,意思決定もしくは選択の瞬間の日付がいれられうる*(7)。 というものである。 ここから,ブキャナンは,公共選択理論における費用を説き,主流派経済学では解けなかった,決定主体と費用負担者の一致がない場合が多い政治における選択問題を俎上に上らせてゆく*(8)。そのなかで,費用や利益が客観的に測定できるとする主流派経済学を批判してゆく。ここから浮かび上がる特徴は,費用概念が持つ,選択主体の責任性の強調である。主流派経済学でも,経済学は選択をテーマにすることが明記されているが,機会費用という主観的な費用概念をもとにした費用の捉え方は,社会の構成員たる個人一人一人の重視が基底にあることが明確である。これは,単に方法的な個人主義という科学方法論の評価問題と密接に絡むだけでなく,広く人間観と絡んだ重要な問題提起をしていると考えられるのである。 次に,費用概念から派生して,オーストリア学派が持つ独自の人間観を考える上で,オーストリア学派の一人ミーゼスの提唱するプラクシオロジーが注目に値する。 プラクシオロジーでは,人間は,新古典派の経済学が措定している狭い意味での「経済人」ではなく,人間のあらゆる目的に関して,それを達成するために最も合理的な手段を選択する「人間行為者homo agens」を措定している*(9)。この人間観からは,単に物事を損か得かでみて最適な資源配分をおこなおうという合理的な個人を超え,目的−手段の因果関係を把握しつつ,選択行為に責任をもち,かつ,選択というある満足状態を得るために,別の満足状態を犠牲にするという主観的,不確実な状態を引き受ける個人が浮かび上がる。このような個人は,シュンペーターの言う「企業家精神」の持ち主でもある。同時に主権をもった消費者でもある。 オーストリア学派の人間観は,ウイーンで生まれ育ち,のちにアメリカに渡った経営学者ピータードラッカーの人間観とも一致している。ドラッカーは,経済人仮説を批判して全人仮説を提示するのであるが,その自由観を説明したなかで「自由とは責任ある選択」であると述べている*(10)。先にも触れたが,経済学の方法論としての人間仮説の域を越えて,オーストリア学派が共通して持つ人間観は,人間とは選択する存在であり,選択には犠牲が伴い,その犠牲を引き受ける中で,選択の責任をまっとうする必要があるというきわめて「強い個人」像が理想としてあったと結論できるであろう。 |
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2007 © Akira Arai |