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2002 日本社会科教育学会自由研究発表ディベート学習の可能性と限界東京都立国立高等学校 新井 明 3.ディベートでしてよいこと・悪いこと筆者は,かつて「ディベートでできること・できないこと」をまとめた*(9)。そのときの結論は,ディベートでできることの最大の要素は,他者の発見を通した共感的理解であり,ディベート論で指摘されている情報収集,分析,論理構築,表現,聴取,意思決定などの能力の育成は可能性として存在しているので教員からの自覚的な指導が必要であるというものであった。できることの他者の発見は,論題を二項対立的に整理することにより生まれる。これは,現実の政治過程のなかでの対立を整理するという面と,自分の内部にある混沌をあえて二項に整理することによる「内なる他者」の発見ができるというものである。その要素は,ディベートのロールプレイ性にあると言える。なぜなら,ディベートでは,肯定・否定のどちらのサイドになるかは,直前のじゃんけんなどの偶然性で決まるからである。特に,それまでの自説と異なったサイドに立った時に,内なる他者が外化することによるとまどいと,それとの対決は,より深い問題把握,さらには認識の深化に通じるといえるというのが,それまでの報告者の到達点であった。 ところが,「できる・できない」とならんでより問題であると気づいたのは,「ディベートでしてよいこと・悪いこと」があるのではないかということである。特に,非政策ディベートのなかの価値判断では無限定的に拡張することによるこわさである。それは,先にも触れたが,大谷氏の問題提起から触発された生命倫理を扱ったディベートではっきりと現れた。 まず,大谷氏の提起をもう少し丁寧に見てみよう。 氏はいう,「出生前診断,是か非かといった二項対立的なディベートには慎重を期したい。むしろ,多様な立場の人々への共感に至る想像力を喚起する方向で,投書などをもとにグループディスカッションを勧めたい」と*(10)。その背景には,氏がいのちの教育を進めるにあたって,「オルタナティヴな『生と死の問題群』の語り方」にディベートはふさわしくないという認識が横たわっている。オルタネイティヴな語り方とは氏によれば「当事者に沈黙を強いない,これまで語りえなかった人々が言挙げできるような,これまでの沈黙をすくい取れるような語り方,問いの立て方,すなわち,新たな親密圏/公共圏の構築への模索に接続する語り方」である。つまり,ディベートは「共感に至る想像力」を喚起するものになりえないという認識がある*(11)。 ここで注目したいのは,氏が関係している前掲『命の教育』でもディベートの勧めをする論者もおり,生命倫理関係者でもディベートに対する評価は分裂しているということである。しかし,氏のこのディベートに対する認識は,そのロールプレイ性からくる他者の発見による共感的理解こそがディベートの優位性と考える報告者にとっては検討に値する異論であった。その異論を検証するものとして,大学生のディベートがあった。 |
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2007 © Akira Arai |