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2002 日本社会科教育学会自由研究発表ディベート学習の可能性と限界東京都立国立高等学校 新井 明 1.はじめに本稿は,筆者がディベートに関してこの十年間近く実践してきた内容を総括するとともに,ディベート授業が今後公民科教育のなかでどのように発展してゆけばよいかを展望するものである。 筆者がはじめてディベート(らしきもの)を実践したのは,1988年(昭和63年)のことである。国際理解の授業の中でそれは行われた。当初は,国際理解の中の他者発見,対立点の明確化を目指して行われた。初期の実践の記録は,今は解散してしまったが千葉大学の国際理解教育研究会の様々な報告書のなかにある*(1)。それ以来,様々な試行錯誤を経て,約10年近く同じスタイルでの実践を重ねてきた。 そのスタイルとは,公民科の「現代社会」で行う集中型の授業スタイルである。おおよそ政治学習の導入として,夏休みにレポートを書かせ,それを基にして4〜5回連続のディベートをおこなうというものである*(2)。 その後も,同様の実践を続け,毎年手ごたえを感じつつ,ディベートの可能性や限界に関して思うことがあったが,特にそれをきちんと追求することなく過ごしてきた。 そのなかで,本稿を書く動機となったのは二つの問題提起を受けたからである。一つは,「いのちの教育」を先駆的に取り組みその深化をはかっている大谷いづみ氏の問題提起である。氏は,いのちの教育ではディベートはなじまないということで,安易に生命倫理の問題をディベートに持ち込むことに対する強い違和感を表明されていた*(3)。もう一つが,大学生を対象にしたディベートとそのときの対話からである。もちろん,ディベート批判派からの問題提起の書,『迷走する<ディベート授業>』に対する吟味もどこかで行わなければいけないという思いもあったこともある*(4)。 |
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