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経済学教育学会紀要『経済教育』第21号掲載

機会費用概念の教育性に関する覚書

東京都立国立高等学校  新 井  明

4 日本における機会費用概念導入の意義

ここでは,アメリカでの機会費用概念の普及を踏まえて,逆にわが国の経済教育の現状を踏まえて,なぜ機会費用概念が日本では取り入れられていないのかを考察するとともに,機会費用概念を教育に取り入れることの意味を考えてみたい。

 まず,前者の問題,すなわち機会費用概念が日本の高校までの経済教育で取り入れられないのは,一つには,歴史主義的な経済学の圧倒的な影響のもとで経済が語られてきたことが大きい。また,学習指導要領の「深入りしないこと」という制限条項があるように,経済学を学ぶのではなく経済を学ぶという姿勢も大きい。この深入り禁止条項は,戦後教育界のイデオロギー論争の中でマルクス主義的思想をなまのままで取り入れさせないという文部省の姿勢の反映なのであろうが,逆に,マルクス以外の思想がポジティブに押し出されることも排除することになったといえよう。その結果,わが国の経済教育は,その時々の経済問題は取り上げられているが,経済に対する見方や考え方,さらにはその拠って立つところの経済学が明示的に示されてこないという結果となったのであろう。それが何より証拠には,経済学習は帰納的なものであり,決して演繹的な扱いをされてこなかったことがある*(11)。そのような教育風土のなかでの概念軽視であったと言える。

 よってたつところの経済学が明示されなかったさらに大きな理由が,新古典派経済学に対する不信感,誤解が多くあったことも推定される。それは,新古典派経済学が,体制擁護の経済学という批判であろうし,目先の損得で判断するような人間つくりは学校ではしてはならないというある意味ではまっとうな批判からであろう。また,概念学習,概念教授に対する批判も存在していることもある*(12)

 しかし,何かを学習するに際して,ベースとなる学問体系がなくして,何を手がかりに問題に接近するのであろうか。学習,教育に必要なのは,学的体系である。結論を先取りして言えば,経済教育では,まず新古典派の体系が参照されなければならないだろう。それは一つには,新古典派が現在の経済学の教育において主流であるという事実から帰納される結論だからである。しかし,そのような形式的な問題だけでなく,内容的にも少なくともこれまでは有効性が承認されてきたからこそ経済学のなかでこれだけの広がりをもったと筆者は考えるのである*(13)。また,物理学でニュートン力学が自然観の基礎として,最先端の自然科学に到達するために教えられているように,経済学でも,新古典派的な経済学を通過しなくては,最先端にたどり着けないと筆者は考えている。その意味で,経済は選択であるという命題のもとで,ものを考えてゆくような経済教育が日本でも広がる必要があると筆者は考えているが,その手がかりとなるのが,機会費用なのではなかろうか。

 機会費用概念は,三つの点から教育的であると言える。一つは,その背景にある強烈な人間観からである。ただし,その際に注意をしておきたいのは,機会費用概念およびその人間観がこれまでにふれてきたようにオーストリア学派からのものであるということの確認である。ここからは,方法的な個人主義に基づく,徹底した自由思想の擁護がでてくるとともに,主観的価値観から不確実性を超えようとする企業者的指向や消費者としての責任が登場することを確認する必要があるということである。集団の中であいまいな意思決定を得意とする日本の風土とは異なる人間観ではあるが,これは風土を超えて,また現在のような市場経済の大海のなかで生きてゆくために必要な人間像ではないのだろうか。このようなオーストリア学派の徹底的リバタリアリズムからは,マクロ経済学の集合的概念は排除される。また,主流派のミクロ経済学と異なり,オーストリア学派は精緻なまでの市場の均衡条件を探ることを良しとしないところにその独自性を持つ。このことは,数学的な厳密さを求めることのできない高等学校までの経済教育にとっては有利な条件となりうる。

ただし,筆者はこのようなオーストリア学派的な経済学を直接に日本の学校教育に導入せよと主張するつもりはない。あまりにも「強い個人」をベースとすることにより,人間が持つもう一つの徳である共同性や共感などが失われる可能性も否定できないからである。特に,宗教的なバックボーンを強くは持たない日本社会のなかで,「強い個人」の強調は強者の論理を正当化するものになりうる可能性があることにも注意を払う必要があるのは当然であろう。

二点目は,機会費用概念そのものが持つ経済思想上の有効性である。それについてイギリスの経済教育の関係者であるダニエル・ジェフリーは「合理性と機会費用は,経済的な考え方economic perspectiveを定義する上で最大の威力を持つ哲学的な概念である」とまで言っている*(14)。機会費用のこのような哲学性は,単に損か得かというレベルを超えて,学習指導要領の文言を借りれば「人間の在り方生き方」を規定するような質的な内容をもっているはずである。ところが,「在り方生き方」を説く,文部科学省の教科書にまったく機会費用が取り入れられていないのである。このパラドックスはなんと表現したらよいのだろうか。

第三点は,日常生活のなかで機会費用の考え方を生かすことがきわめて有効であるからである。「安売り卵の経済学」の例えが経済教育のなかで使われることがある。日常生活のなかで,いかにこの種の行動が多いか。それを考える時,機会費用概念はことばこそ難しいがきわめて日常的に利用できる概念であることが理解できる。その意味で,小さい時から経済教育のなかで,機会費用の考え方を明示的に取り入れることは,重要な意義を持つことと思われる*(15)

  1. 1 はじめに
  2. 2 機会費用概念と主流派経済学
  3. 3 機会費用概念の教育性とオーストリア学派の人間観
  4. 5 おわりに
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機会費用概念の教育性に関する覚書

  1. 1 はじめに
  2. 2 機会費用概念と主流派経済学
  3. 3 機会費用概念の教育性とオーストリア学派の人間観
  4. 4 日本における機会費用概念導入の意義
  5. 5 おわりに
2007 © Akira Arai