第1回著名人対談「安藤忠雄 (あんどうただお)氏」

対談
撮影・平野晋子

第1回 安藤忠雄氏

日本を代表する建築家、東京大学名誉教授。1941年大阪生まれ。
独学で建築を学び、1962〜69年までアメリカ、ヨーロッパ、アフリカを旅行する。1969年安藤忠雄建築研究所を設立。

主な建築作品は大阪「サントリーミュージアム天保山」、イタリア、トレヴィーゾ「ファブリカ(ベネトンアートスクール)」等、多数。
1993年イギリス王立英国建築家協会(RIBA)名誉会員、他。

「助けてくれる人はいない」

 : ボクシングをされていたことはよく知られています。ボクシングの経験から学ばれたことは。

安藤 :誰でも若い時にスポーツするでしょう。僕の場合はそれがボクシングだったというだけですよ。 それほど変わったことじゃないと思う。ただ、一対一で限界ぎりぎりまで戦うから 普通のスポーツを超えていると感じはします。助けてくれる人はいないということを学びました。 体力と意地の戦いなんですよ。

やり始めて、練習場でファイティング原田を見たんです。ボクシングは天性の才能だと思いました。 何でもそうかもしれませんが、努力して能力は上がるけれども、上がる所まで上がったらそれ以上は上がらない。 物事というのは向き不向きがある。これもボクシングから学んだことですよ。



「建築を造る=「家族」、という信念」

 :
どういうきっかけで、
ボクサーから建築家を志されたのでしょう。

安藤 :
中学2年の時に我が家の増築をしたんですよ、隣の大工さんを僕も手伝った。 そのとき建築って面白いなと思った。ル・コルビュジェという建築家の本を読んで、 建築って非常におもしろい世界だと思い、是非やってみたいと思って、 自分流の勉強のやり方を自分で考えて、これまでやってきたんですよ。

 :
安藤さんの建築には強い意志と個性が感じられます。

安藤 :
東京オリンピックがあった1964年に初めて丹下健三先生の代々木体育館を見たんです。 これは今でも世界に誇れる建築ですね。同じ時に、明治神宮と原宿・表参道の同潤会青山アパートも見たんですが、 人間の力ってすごいなぁと感じました。その時、自分は社会に対して何ができるか、 自分は自分に対して何ができるかを考えながら、何というかなあ、責任を持って生きようと思ったんです。

'60年代は、日本が高度経済成長のスタートラインに立ったところ。 日本はアメリカ型社会になり、大量生産、大量消費が始まった。'70年の万国博覧会を目指して、みんな頑張ったんですよ。 でも、日本はその時に一番大切なものを忘れ、その見返りに世界一の経済大国になったわけです。 一番大切なことは家族・個人・地域社会だということを忘れて、ひたすら会社のために働く。 そんな中で僕は建築を造るのはどうゆうことなのかと考えてきたんですが、それは「家族」なんだという信念を持ちました。

建築を考えるとき、そこにどんなテーマがあるのかという目標を設定しないといけないんですが、 僕は家族のための住まい造りを目指した。僕の作品は、むろん評価をされたこともありましたけれど、 「どうしてあんな建築を」と悪評も浴びせられました。7割は批判的であり、1.2割は好意的でした。 僕の作品で真中に中庭がある町屋があります。狭い敷地に一軒の家を造るのに、自然と生きながら、 どれだけ大きな世界をつくればいいのかと色々と考えました。いわゆる昔の日本の町屋は全部中庭があったり、 後庭があったり前庭があったりします。ぎりぎりの生活の中でも、自然を楽しみながら生きていくという生活感覚があったんですよ。

 :
自然との共存も大きなテーマですね。

安藤 :
自然とともに生きるというのはいい面もありますが、困ったこともあります。 例えば中庭があると、夏はいいけれども冬は寒い。生活とはそういうものだと割り切れるかどうかですね。

そこで僕は割り切ったんですよ、中庭を造ろう!と。そういう空間こそが快適なんだ、と。 だから、それをどうやって建築の中に取り込むのかが私の建築思想の原点になって、それを色々な建物に展開していきました。 そういう面で、確かに僕の建築は個性的だったのでしょうね。我々は一つの地球に生きているということも忘れてはならない。 一つの地球の中で人間が自然と共存する、そのためには地球を大切にしないといけない。 こういう考えをしっかり持って建物を造らねばならないのですよ。



「白い花を咲かせようと」

 :
社会貢献活動にも力を入れていらっしゃいますが、
そんな考え方に基づいているんですね。

安藤 :
自分が社会貢献していると思ったことはないけれど、神戸の震災後に始めた活動の一つに 「兵庫グリーンネットワーク」というのがあります。募金を集めて木を植える運動ですが、 '95年1月の地震の後、4、5月にかけて、あちこちに木蓮やコブシなど白い花を咲かせたいと考えたのです。

町を美しくするというよりも、亡くなった人たちの魂をちゃんと鎮めるんだというつもりでやり続けています。 1本5000円ぐらいの木なんですが、一昨年の5月に30万本に達しました。よくここまで行ったなと自分でも思いますが、 これは僕の努力というよりも県民の努力なのです。僕にできることは「やりましょう植えましょう」と言うぐらいです。 成果はないかもしれないけど、少なくともそれを頼りに生きた人たちが何人かいたというだけで十分役割を果たしたと思ってます。

我々が生きている環境とは、決して自分の建物だけではない。隣近所なんですよ。そしてみんな家族、地域社会がある。 こんなことを考え続けてやってきているのが、たまたま社会貢献といえば社会貢献なんですけども、自分達の表現なんですね。 地域の人々の心の支えになるということでやってきたものが少し広がれば、地域社会に貢献できる。 一本の花を植えることが、白い花のネットワークになる。これが建築家の表現の一つなのです。

自分が考えたことですから、いったん始めたら一生続けるべきだと僕は思っています。続けることにこそ意義がある。 半面、町の人たちにとっては迷惑な部分もある。落ち葉の問題などがあり、「それはどうするの」という人もいます。 何かすると必ず問題が起こるんです。その時に、議論が生まれるのですよ。 これからの日本が元気になるには、議論のできる人がいっぱい出てこないといけない。 「なぜいらないのか」、「なぜいるのか」と。そういう議論を通じて、違う仕事の人たちがそれぞれの視点で、 自分ができることを見つける。それが自分にとっても地球にとっても有意義であることを目指して欲しい。



※ このインタビュー記事は、 リロクラブの情報誌「F・U・N」に連載されたものに加筆・修正したものです。
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